2017/11/8 松添博・被爆“語り部”活動②

 <2>松添博~人口声帯で“被爆・語り部”活動

松添博さんは、2011(平成23)年「下咽頭がん」のため声帯を切除し、声を失いますが、それ以前から行っていた被爆“語り部”活動への復帰を目指し、長与病院の通所リハビリテーションへ通います。筆談から人口咽頭での発声へ~80歳を超えて尚、若い人たちへの被爆体験の伝承に力の限りを注がれました。
 
*平成23年4月、首にシコリができたので大学病院で検査をしてノドのガンが見つかり16時間の大手術を受けました。
*声帯を切除し、声が出せなくなると聞いたときはもう一人前の人間ではないと奈落の底に突き落とされたようなショックを受けました。3か月の入院で退院しました。
             
*2か月後、長与病院の通所リハビリに週に2日通い出しました。人口咽頭をノドに当てて発声練習を始めました。リハビリのスタッフの皆さんの熱心な指導のお陰で2~3か月でどうにか日常の会話ができるようになりました。
             
*平成24年8月4日。市立図書館で「親子と平和を考える」イベントがあり、私は初めて人の前でマイクを用いて話をしました。40人の人達が話を聞いてくれました。
*平成24年10月3日。手術後初めて修学旅行生の前に立って話を始めました。11月までの間、3回の講話を行いました。
             
*平成25年の3月17日、原爆資料館で開催した滑石中学校の紙芝居会に出席し、最後にあいさつをしました。その際、アジア青年交流事業で長崎に来ていたマレーシアの大学生と韓国の大学生と活水高生が傍聴をしてくれました。
*私は平成18年に長崎の青年5人とマレーシアのマラヤ大学との交流をしたことから、平成24年に続いて平成25年にも長崎を訪問したマラヤ大学のナスルディン教授がマラヤ大学生一人一人に私を紹介してくれ、みんなと握手をしました。
 
*平成25年7月25日。第6回紙芝居会が原爆資料館で開催され、昨年に続き私は器具をつかって朗読し上演しました。会場には100人を越す人隊が聞き入ってくれました。
*平成25年8月8日。ふりそでの少女像の前で10年前から開催をしてくれている活水高生らが 「碑前祭」を実施してくれました。私は参加者の前であいさつを行いました。
             
*「碑前祭」には40人ほどの人が集まり、遠くは京都からの中学生も参加してくれました。最後には「ふりそでの少女」の歌を全員で合唱しました。
*平成25年の夏は市内の中学校2校と小学校1校に被爆体験の講話に出向しました。各学校からの感想文が送られてきました。多くの生徒から感動したと文がつづられていました。8月9日には活水高校(550名)で講話を行いました。私の話の前に活水高生による「ふりそでの少女」の物語りをスクリーンに写しての朗読がありました。その後、私の被爆体験を前もって渡していた写真をスクリーンに写しての講話を行いました。こちらの生徒たちからも感動したとの感想文をいただきました。このように不遇な立場の私に、逆に講話の要請が相次いだのでした。
 
*平成25年1月から6月にかけて、私は龍(じゃ)踊りの大太鼓の2個分の絵を描き、また紙芝居用2作分の絵36枚を描きました。そのため県美術協会展の出品作の製作を中断し出展できませんでした。
 平成26年の長崎くんちに出演予定の五島町の龍踊りの大太鼓(径90センチ)2個分の表裏4枚分の絵を描きました。
*私は郷土芸能・滑石龍踊リの元総監督をしていたところから、8年前から滑石中学校の龍踊りの指導をしております。今年10月から指導に当たりました。踊り手55人、楽器45人という多勢の生徒でしたが上手に踊れるようになりました。
*こんな不自由な身体で、しかも老体の私に与えられた使命の大きさに感動しております。<終わり>

ナガサキピースミュージアムで開催しています企画展 『被爆画家・松添博さんを偲んで~長崎市役所 美術展~』は、11月26日(日)までです。松添さんが描かれた「日本画と絵巻」は、長崎市平和推進協会継承
部会の末永浩さんら関係皆様のご提供・ご支援で原画を展示させて頂いています。是非ご覧頂きますようご案内いたします。

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