2017/11/8 松添博・被爆“語り部”活動

 〇被爆画家~人口咽頭で“語り部”活動!

ナガサキピースミュージアムで開催中の企画展 『被爆画家・松添博さんを偲んで~長崎市役所 美術展~』が話題を呼んでいます。
松添博さん(1930-2014)は、長崎原爆資料館・北側庭園に設置されている“ふりそでの少女像”「未来を生きる子ら」の原画作家として著名ですが、晩年、癌(がん)で声帯を切除し声を失ったにも拘わらず「人口咽頭」でこれを克服し、83歳で命尽きるまで被爆の“語り部”活動に参加し、若い人たちへの被爆体験継承の先頭に立たれました。
声帯切除後、長与病院でのリハビリと並行して作成された「日本画と絵巻」から、画像と本文を抜粋し、松添博さんの壮絶な被爆と病気克服の闘いをご紹介します。
 
<松添博さん(2008・8/8)>            <「日本画と絵巻」から>

<1> 松添博被爆体験
 
*1945年(昭和20年)、私たちは中学3年生。当時戦争はきびしくなり、学校の授業は中止になり、2年生以上の中学生は工場に動員され茂里町の三菱長崎製鋼所で働いていました。
*8月1日、始めてアメリカ空軍の空襲を受け、その工場が標的になり何発もの爆弾を落とされ、私たちは地下室に逃げ込みました。近くに爆弾が落とされ、砂ぼこりが吹き込み息もつけないほどで、とても怖い思いをしました。その怖い思いが8月9日にはその工場には居なかったのです。
                 
*8月9日、一旦工場に出勤しましたが、すぐに空襲警報が発令されたので、すぐに工場から避難し、爆心地から3.8キロ離れた滑石の自宅に居りました。
11時すぎ、B29の爆音が聞こえたので空を眺めていました。一瞬熱線と光を浴びました。上半身裸でいたので脇腹にヤケドを負いました。その後爆風で5~6メートル吹き飛ばされていました。
*長崎市街地の方を見ると、キノコ雲が太陽に真白く光り、もくもくと空高く上がるのが見えました。広島に新型爆弾が落とされたとニュースで聞いていたので、それと同じ爆弾が落とされたのだと思いました。
その後、市街地は煙に包まれました。
          
*夕方、脇腹の小さな水ぶくれが腰のところに集まり大きな水ぶくれとなったので治療してもらおうと近くの、元軍医宅へ行きました。ところがそこに着いてみると、今まで見たことがない大ヤケドを負った人、大ケガをした人たちが、足の踏み場もないほど横たわっていました。私はこれが「生き地獄」だと思いました。ここで治療を受けた人の大半は亡くなったと聞きました。
*それから10日後の8月19日。私は畑の中に古材を井桁に積み、ふりそでの着物を着せて火葬されようとしていた二人の少女に出会いました。
こんな可愛いさかりの女の子を亡くし、家族はどんなに悲しい思いをしているかと、自分の身内のように悲しい思いになりました。この悲しい様子を残したいと29年後、一枚の絵を描きました。この絵は原爆資料館に展示されています。
             
*二人の少女の名前がわかったのは43年後の昭和63年のことでした。一人の少女は大島チカ子ちゃん・12才。もう一人の少女は福留美奈子ちゃん・10才とわかりました。更に調べていくと、美奈子ちゃんの実の母親が京都・綾部市に住んでおられることがわかりました。
*私はその年、綾部市の母親を訪ね、美奈子ちゃんの最後の様子を知らせました。美奈子ちゃんは、母が中国に渡るとき、長崎の伯父夫妻に預けていて被爆したのでした。美奈子ちゃんの最後を聞き涙を流されました。
               
*その母親が娘の霊を弔うために、地蔵さんを建てたいと地元の中学生らに話をしました。それを聞いた中学生らが街頭募金を始めました。その様子がテレビで全国放映され全国から多くの募金が集まりました。そして綾部市に「ふりそでの少女像をつくる会」が発足しました。
*平成8年3月31日、原爆資料館の屋上に「ふりそでの少女像」が建てられました。その除幕式には街頭募金をした中学生ら50人も出席しました。8月8日には毎年活水高校生が碑前祭をしてくれます。そしてふりそでの少女の歌を歌ってくれるのです。  
   
*平成3年「ふりそでの少女」の絵本を出版。この絵本を元にして長崎で、綾部市で、遠くは山梨市で紙芝居にして上演されております。現在、地元の活水高生が、英語、中国語、韓国語、マレーシア語に翻訳して外国人にも紹介知れてくれています。平成25年4月には活水高生がアメリカ・カリフォルニア州のモントレー大学院まで出向き紹介してくれました。

松本博さんの「<1>被爆体験」はここまでです。
この後「<2>人口声帯で被爆“語り部”活動」を、11月9日に掲載する予定です。

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