2018/8/26 99歳元兵士の戦場体験

〇証言“1370kmを歩いた戦場”(2018・8/25)

長崎県長与町在住の元日本軍兵士・中野清香さん(99歳)が、8月25日(土)ナガサキピースミュージアムで開催中の『戦場体験聞き取りキャラバン報告展』のギャラリートークで太平洋戦争末期の悲惨な「ニューギニア戦線」での戦闘状況を克明に証言しました。


〈中野清香さん〉

 
 

中野清香さん<1918(大正7)年9月28日生>は鹿児島県甑島(現・薩摩川内市)出身で、1939(昭和14)年1月、日本陸軍に徴兵され中国大陸に派兵されました。1941(昭和16)年12月日本軍の真珠湾攻撃で「太平洋戦争」(大東亜戦争)が始まり、1943(昭和18)年4月には西部22部隊独立工兵第37連隊の軍曹として、日本本土から5000km離れた南太平洋のニューギニア(現・パプアニューギニア)東部のハンサに上陸しました。
戦争指揮官の一人、山本五十六元帥が戦死した直後で、米軍中心の連合軍が圧倒的な戦力で20万人と言われた日本軍に繰り返し猛攻を加えていた時期。日本軍の兵士たちは補給路を断たれ兵器・弾薬のみならず食料も不足し、主要基地から撤退に撤退を余儀なくされました。
中野さんの証言では、軍馬も使えない山野の移動は夜間ばかり。「歩く軍隊」と言われたそうですが、1945(昭和20)年の終戦まで歩いた距離は1370km。長崎・東京間の鉄路を歩いてもまだあまりが出るほどだったそうです。その間、赤痢やマラリアが大量に発生しただけでなく、1944(昭和19)年7月頃になると命を支えた食料の「米(こめ)」も尽き果て、現地山野の“サゴヤシ”のでんぷんを主食に加工し、ジャングルのふき・パンの実・イナゴ・野ネズミなどにも口にせざるをえなかったそうです。

中野さんのギャラリートークに同席された園田定さん<1920(大正9)年1月28日長崎市生まれ・現佐世保市在住*朝鮮23部隊:歩兵20師団79連隊>は、同ニューギニア戦線での食料難等について補足され、『人肉を食べたものは銃殺刑に処する』との命令が出たほど、生き残るために“人肉を口にした兵士も居た”と後年残された兵士の手記をもとに紹介され、戦争の悲劇・悲惨さを訴えられました。
因みに、同島への派兵20万人中生還者は2万人足らずで、今尚、山野に放置された兵士たちの遺骨収集活動が続けられています。又、当時日本軍の最大の拠点地であったウエワク<現・東セピック州州都>には、1987(昭和56)年、日本政府などによる慰霊公園が作られ「戦没者の碑も建立されています。」

 
〈園田定さん〉

ギャラリートークの模様は、2018年8月26日付けの毎日新聞・第27面(地域版)に「忘れ去ってはいけない」の大きな見出しで掲載されています。浅野翔太郎記者の取材です。全文を紹介させて頂きます。

 『長与町に住む99歳の元日本陸軍兵が25日、長崎市のナガサキピースミュージアムで自身の過酷な従軍体験を語った。戦場の悲惨な実相を後世に伝えて行くために、「生きている限り、若い人に体験を話していきたい」と力を込めた。  【浅野翔太郎】
  語ったのは鹿児島県出身で、陸軍独立工兵第37連隊の隊員としてニューギニアへ従軍した中野清香(きよか)さん(99)。太平洋のソロモン諸島のガダルカナルの戦いで日本が敗れた後の1943年4月、中野さんたちの部隊は、ガダルカナルに近い東部ニューギニア(現パプアニューギニア)に上陸した。上陸後、敵機の機銃掃射を受けたり、赤痢やマラリアが流行したりして半数以上がなくなった。その後、米軍など連合軍は「飛び石作戦」として、中野さんたちの部隊を攻撃せずに先に進んだ。しかし部隊はやがて食料が尽き、イナゴや野ネズミを食べるなどして移動する中で多くが亡くなり、道脇などに遺体がそのまま放置された。「人肉を食べたものは銃殺刑に処する。ただし敵兵はこれにあらず」との命令も出た。終戦後、収容所に入れられ翌46年に日本に戻った。郷里の鹿児島で 「戦争を思い出すのも嫌」と大工の仕事に専念したが、知人に誘われて67年に長崎に移住したころから、「忘れさってはいけない」との思いが強くなった。ニューギニアから持ち帰っていた資料を基に記録を書き始め、同じ部隊の遺族らと現地へ遺骨収集にも行った。中野さんは 「戦中を若い人が知らないのはもっともだ。だからこそ話していきたい」と締めくくった。』

*「戦場体験聞き取りキャラバン報告展」は、9月9日(日)午後2時まで開催。
ナガサキピースミュージアム・入場無料・☎095-818-4247

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