2020/4/1 戦争を知る 人生の“師”

〇 浜辺耕作「戦争を知る 人生の“師”」
    ~長崎新聞:被爆・戦後75年企画③ (2020・4/1)

写真家・浜辺耕作さんの「モノクロの祈り」3回目です。これは、長崎新聞が被爆・戦後75年記念企画として連載している『長崎原爆と創作』の第一部:美術に掲載されています。「モノクロの祈り」のタイトルで、2020年3月15日・第一回「目を背けてはならない」でスタートし、2回目が「母のまなざしマリア像」(3月18日)、3回目が「戦争を知る 人生の“師”」として今日(4月1日)掲載です。
このタイトルにある「人生の“師”」とは、長崎市民の絵画・デザイン・写真等の美術作品の発表の場として「コクラヤギャラリー」を開設している高浪藤夫さん(87)です。高浪さんは眼鏡屋さんのご主人ですが、「目を大切にするには絵筆を握り美しい自然に触れキャンパスいっぱいに絵を描く事」の信念で、店舗の一角をギャラリーに開放しています。浜辺さんは写真を始めた頃から交流を深め何度も作品の発表を続けています。

<2020・4/1付:長崎新聞・第16面(文化)>

 

山口恭祐記者の取材です。全文紹介させて頂きます。

『    戦争を知る 人生の「師」 ~モノクロの祈り③
 諫早市の写真家、浜辺耕作(73)が1980年、中央の公募展「国展」などで初入選を果たした頃、被写体はまな娘や風景だった。やがて数年後、教会やマリア像を題材にした作品を手掛け始め、長崎原爆にも関心を寄せていく。浜辺は「原爆に関わるようになったのは、高浪さんの影響が大きい」と振り返る。
 「めがねのコクラヤ」(長崎市)創業者の高浪藤夫(87)。店に併設したコクラヤギャラリーは現在まで、地元作家の発表の場として親しまれている。浜辺は80年代中ごろから積極的に個展を開催。同ギャラリーをよく利用した。高浪は当時から浜辺に目をかけ、浜辺は「人生の師」と高浪を慕ってきた。
 戦時中の45年3月、現在の福岡県朝倉市で、高浪が通う国民学校の、隣の学校の児童三十数人が空爆で命を落とした。戦後、長く心を痛めていた高浪は90年、長崎市内の自宅に「少国民資料館」(現在は閉館)を開設した。児童が「少国民」と呼ばれて戦争に協力させられた記憶の継承や、犠牲になった児童の慰霊が目的だった。
 浜辺は開館の準備に協力。高浪と2人で朝倉市を訪れ、児童が空襲に遭った森の土を運んで、資料館の土間に敷き詰めた。浜辺は「高浪さんから『長崎の写真家なんだから、(戦争や原爆に)目を向けなくては』と言われた」と記憶をたどった。
 春らしい日差しが注いだ3月初めの昼下がり。浜辺と高浪の自宅を訪ねた。高浪は「ものすごく物分かりが早い。一言ったら三くらい解釈している。ユニークで、独自のアングル、モチーフを持っている」と、浜辺について評した。
 (戦争は嫌だという思いは)その頃生きた人はみんな持っているけど、なかなか言い出さない。今の人も、みんなのんき過ぎて、どうして選挙に行ってくれないのか・・・」。縁側で世相を憂う高浪の言葉に、浜辺はじっと耳を傾けていた。
 98年8月、浜辺は広島、長崎の作家の作品を米国で展示した平和美術展に出品。カメラを携え、何人かの作家らと米を訪れた。ニューヨークを経て、空路で展示会場のニューメキシコ州アルバカーキに移動する旅程だった。
 同州に到着後、米が第2次世界大戦中に人類初の核実験を行った「トリニティ・サイト」を訪れた。バスは短い時間停車したが、外に出ることはできなかった。車窓越しに、見渡す限りの荒野と真っ青な空と白い雲、太陽をファインダーに収めシャッターを切った。
 帰国後にフィルムを現像すると、画面上端の太陽がまるで、さく裂した瞬間の原子爆弾のようだった。「被爆者が目にした光景は、こんなふうだったのだろうか」と思いをはせた。プリント作業で、巨大な光球が上空に輝くかのような作品に仕上げ、翌年、コクラヤギャラリーで開いた帰国写真展で展示した。 =文中敬称略= (山口恭祐) 』

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