2020/3/18 母のまなざしのマリア像

〇“母のまなざしのマリア像”
~長崎新聞「浜辺耕二・モノクロの祈り②」(3/18)
長崎新聞社『被爆・戦後75年企画:長崎原爆と創作』~写真家・浜辺耕二さんの2回目です。
今回は浜辺さんが生まれ育ったキリシタンの里、長崎市外海地区“黒崎”での記憶です。

<2020年3月18日付:長崎新聞・第13面・文化欄>

『母のまなざしのマリア像』
 今も鮮明な、悲しい記憶がある。「小学1年の時、母が外海を出て行くバスを、走って追いかけた。3歳上の兄が僕を制して『耕二泣くな』と慰めてくれた」。諫早市の写真家。浜辺耕作(73)=本名・耕二=は子どもの頃、ほとんどの期間を両親と離れて暮らした。
1946年11月、父吉男の郷里である現在の長崎市外海地区・黒崎で生まれた。父は診療放射線技師として関東で働き、母會子は看護師だった。生後間もなく父が五島の病院に勤めることになり、一家で移り住むが、母が結核性脊髄炎を発症。浜辺は3、4歳ごろから、兄と共に黒崎の祖父母の下で育った。
母は7年間の療養の後に回復し、浜辺が小学校に入る頃に黒崎で一緒に暮らし始めた。だが祖父母と折り合いが悪かったのか、数か月後に兄弟を置いて長崎市に移り住む。母が乗った長崎行きのバスに、浜辺は泣きながら追いすがった。
父は五島から関東の病院に戻っていた。兄は中学に上がると長崎で暮らし始めたが、浜辺は黒崎に残された。祖父母は浜辺が小学校を卒業する前に相次いで死去。その後は、結婚したばかりの叔父夫婦が親代わりだった。
両親はこの頃離婚。浜辺は一時的に長崎の母と暮らすこともあったが、母が体調を崩すと、すぐに黒崎に戻された。病状が安定した母に引き取られたのは、中学2年の頃だった。
黒崎で少学生の頃、友人はクリスチャンの子ばかりだった。浜辺は信者ではなかったが放課後、一緒に教会の行事や祈りの練習に加わった。カトリック黒崎教会が遊び場だった。れんが造りの聖堂の前に、純白のマリア様がたたずむ様子は今も当時のまま。マリア像が見下ろす前庭で、辺りが暗くなるまで遊んだ。
「祖父母も叔父夫婦もかわいがってくれたが、叔父は新婚だったし、後に子どももできた。子ども心に帰りづらい気持ちがあったのかもしれない」。マリア像や教会を撮り始めたのは 「今思うと、マリア像に母のまなざしや、寂しさへの癒やしを求めた記憶があったのだろう」。
ほぼ一緒に暮らしたことのなかった父だが、浜辺には優しかった。たまに東京から戻ると、浜辺に会いたがった。小学5年の時、当時珍しかったカメラを買ってくれた。愛犬の写真を一生懸命撮った記憶がある。父は年老いてから関東を引き払い、最後は母と暮らした。2人は復縁しないまま、2001年に父が、12年に母がこの世を去った。
写真家として活動していた浜辺は大病を患い撮影を休止していたが、、12年、本名の耕二から現在の「耕作」に名を改め、公募展出品を再開する。心機一転を期した名は父に由来している。「音楽好きで、作曲家の山田耕筰が大好きだった。『お前の名前は、本当は耕筰にしたかったんだ』とよく言っていた」 =文中敬称略= (山口恭祐)  』

※次回は、3月25日(水)付「文化面」に掲載される予定です。
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