2020/1/31 「爆心地の記憶」展 はじまりました

被爆者の竹下芙美さんが、1996年に長崎市松山町の爆心地公園で発掘した被爆資料を展示する「被爆75年 特別企画 『爆心地の記憶』展 」が始まりました。
開催にあたっての竹下さんのご挨拶です。全文をご紹介します。

『1996年4月、平和公園に続き、爆心地公園の整備工事が始まりました。「爆心直下なので貴重な被爆資料も出てくるかもしれない」と思い出向いた私は、そこで人骨が埋まっているのを見つけました。小さな骨もありました。ただただ、「掘り出さなければ」という思いで、許可を取り発掘をしました。
 上空約500mで原子爆弾が炸裂したその直下の土中からは瓦、木材、そして茶碗や仏具、歯ブラシ、クシ、衣類、火鉢、傘の骨といった生活用品。さらに、人骨、畳、木材と、上から順に見つかりました。瓦の表面は他では見られないほど大きく泡だっていました。

 「あの日」、私は3歳10ヶ月でした。疎開先の時津にいましたが、8月14日に自宅があった西坂町に向かい、入市被爆しました。記憶はほとんどありませんが、「ぴかっと光ると大変なことが起こる」とずっと稲光を怖がりました。 
 29歳で結婚し、長い間、普通の主婦でした。1987年に沖縄の戦跡めぐりをしたことをきっかけに、被爆者であることを強く実感し、平和活動に関わるようになりました。
 知識として「知っている」ことと、実際は全然違う・・・「本物」を自分の目で見て、手で触らなければわからない、と思ったのです。
 若いときから病気ばかりしてきました。去年は、2度目のがんが見つかりました。人生の残り時間を考える頃となっています。

 被爆75年を前に、改めて心に浮かんだのは爆心地で掘り出した小さな骨でした。当時の私と同じぐらいの女の子のものだそうです。戦争も原爆もなく、もし、女の子が生きていれば、私と同じように、辛いこともあるかもしれないけれど、楽しいこともいっぱいあった人生を送れたことでしょう。今頃、孫に囲まれていたかも知れません。そんなことを考えると、とても苦しく涙が止まらなくなります。普通に暮らす毎日が、たった一発の原爆によって、一瞬で消しさられてしまいました。

 展示している資料はすべて私が爆心地で発掘し、これまで大切に守ってきたものです。どうぞ、じっくり見て、当時のことを想像してください。そして、戦争の疎かさ、原爆の残酷さを、伝え続けてください。
 きょうは寒い中、足を運んでいただき、ありがとうございます。   被爆遺構を保存する会共同代表 竹下 芙美』

  展示初日にはたくさんの取材があり、竹下さんが発掘した状況を丁寧に説明されていました。

〈マスコミや来館者に説明する竹下さん〉

早速、地元テレビ局数社が当日昼・夕方のニュースで取り上げたほか、長崎新聞が1月29日付・ローカル面で掲載しています。
中間優布子記者の取材です。全文を紹介させて頂きます。

『 被爆者の竹下さん「核兵器のむごさ知って」
 長崎市松山町の爆心地公園で1996年にあった工事で見つかった被爆者の遺品など計56点を展示する企画展が28日、同市松が枝町のナガサキピースミュージアムで始まった。2月24日まで。
 採掘したのは長崎の被爆遺構を保存する会の共同代表を務める被爆者の竹下芙美さん(78)。当時、約1カ月半かけて手作業で土を掘りながら探し、約千点の被災資料を発見した。その中から、形が残っている物や熱線や爆風の痕跡がわかる物を選んで展示している。資料の多くは竹下さんの母校である市立銭座小で展示されているが、市民向けの公開展示は今回が初めて。
 熱で泡状に溶けた被爆瓦や、学生服のボタン、歯ブラシなどの日常品などが並んでいる。竹下さんは「突然命を奪った戦争や核兵器のむごさを知って、二度と後世に味わわせないように反核について考えてほしい」と話している。  (中間優布子) 』

「爆心地の記憶」展は2月24日(月・祝)までです。被爆した瓦や生活用品に、触れることができるコーナーもあります。是非お出かけください。

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