2018/1/17 アメリカの若者“長崎”で学ぶ

〇長崎で知ったアメリカの“旅”
  ~ケンタッキー・センター大学生来崎~(2018・1/8-26)

アメリカ・ケンタッキー州ダンヴィルにある「センター大学(Centre College)」の学生が海外スタディツアーで長崎を訪れ、キリシタンの歴史や長崎の原爆などについて学んでいます。一行は1月8日来崎、26日離日まで長崎を中心に山口県萩市、津和野町なども訪れる予定です。


<2018・1/11:浦上天主堂>

センター大学の学生総数は約1400人。小規模のリベラルアーツ(教養)大学で、1819年創立。入試合格率70%という難易度が厳しい南部有数の名門大学です。日本の山口県立大学と学術交流協定を結んでおり、毎年留学生も派遣されています。毎年、10を超える海外ステディツアーが組まれており、今回もその一環で、2年生から4年生の男女学生23人が参加しています。
一行は1月9日、「二十六聖人記念館」を訪れ、日本におけるキリシタン弾圧の全体像に触れました。そして、雪に見舞われた11日、浦上キリシタン資料館で、弾圧の厳しい歴史と信仰復興の歴史、浦上被爆の実相を学びました。

 
<浦上キリシタン資料館>                 <講話風景>

講話では、まず、キリシタン資料館の岩波智代子オーナーが、「1549年、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルの鹿児島上陸」に始まる日本キリシタン史の概略を述べました。布教の広がり、禁教の嵐、隠れキリシタン、信徒発見・・・とドラマティックな展開に学生たちは驚きの目を見張りました。
『徳川幕府は1614年キリシタン禁教令を出しました。キリスト教は禁止、宣教師(バテレン)は追放、そして外国貿易は縮小し、出島のオランダ人と唐人館の中国人とだけ貿易を認めました。以降、禁教の嵐は吹き荒れキリスト教への弾圧が強化され、沢山あった教会はすべて破壊、当時5万人いたという長崎のキリシタンは壊滅の危機に瀕しました。キリシタン探索の為「踏み絵」、「宣教師・信徒を見つけ訴えたものへの報奨金制度」、村人同士に監視を強制した「五人組制度」、寺への所属を強制した「寺請制度」など、弾圧の網は町中、村中に張り巡らされました。そして、これらの探索で見つけ出されたキリシタンへは「穴吊り」など残酷な拷問にかけ改宗を迫りました。「転び」と言われました。信仰を捨てず“殉教”した信者もいました。
 多くの信者は弾圧にめげず地下に潜って地下組織を作り信仰を守りました。隠れキリシタンです。それは、1614年から“信徒発見”の1865年まで250年も続きました。しかしながら、江戸から明治へ近代国家への歩みを始めたばかりの明治政府は国家神道を推進するため、キリシタン禁教を継続、浦上キリシタン約3500人全ては故郷を追われ、“旅”と呼ばれる全国20藩22か所に総流配され改宗を迫られたのでした。1873年、海外の非難強く、禁令は解かれ、キリシタンは「信仰の自由」を勝ち取りました。』

 
<岩波智代子さん>            <森内浩二郎さん>

森内浩二郎さんは、1865年の信徒発見・・・大浦天主堂で「私たちはキリシタンです」と神父に告白した浦上キリシタン姉妹の妹・杉本クララてるのひ孫です。森内さんは、明治新政府に追われた浦上キリシタンの“旅”を詳細に報告した後、アメリカにも“旅”があったと学生たちに語り掛けました。

●アメリカにもあった“旅”とは・・・
『皆さんは「アメージング・グレイス」という歌をご存知でしょう。この歌はジョン・ニュートン作詞の有名な讃美歌ですが、ネイティブ・アメリカンのチェロキー・インディアンが1830年に作られた「インディアン強制移住法」により、1838年9月~1839年3月にジョージア州からオクラホマ州まで軍隊を使って強制移住させられた時の残忍さを思い、歌い継がれている名曲なんですね。この「強制移住」のことは、「The Trail of Tears (涙の旅路)」と言われています。移動距離は1300kmで13000人の中、4人に1人が亡くなっています。浦上のキリシタン(“旅”3500余人中650余人死亡)もチェロキー・インディアンの人たちも国家によって強制的に隔離され、人として生きる権利をはく奪されました。彼らはその出来事を「旅」と表現しているのが共通しています』
森内浩二郎さんはこのあと、“旅”から生き残って帰郷した浦上キリシタンの生活と信仰を語り、「信仰の自由があればこそ困難を乗り越えることが出来た。神への感謝と一時的であれ改心したことの償いをする祈りの場としてカルワリオの丘(ゴルゴダ*キリスト処刑の地)に似た地に大十字架を立て、浦上天主堂を建設、流配記念碑“信仰の礎”を建立しました」と述べました。そして最後に、この浦上地区に落とされた1945年の原爆に触れ、「信徒1万3000余人中7500人が死亡、浦上天主堂を含め壊滅した」悲劇を乗り越え今日に至っていると締めくくりました。

 
<浦上天主堂「信仰の礎」碑>            <浦上天主堂「鐘楼」残骸>

センター大学の学生たちはこのあと、浦上天主堂へ向かい、「信仰の礎」や原爆で吹き飛ばされた天主堂の大きな「鐘楼」の残骸を見学し、改めて原爆の脅威、平和の大切さを噛み締めていました。
学生たちは26日の離日まで、長崎原爆資料館・永井隆記念館等の見学、被爆者交流、外海地域の「沈黙の碑」関連地域見学などを予定しています。

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