2012/4/11 増川レポート⑦

極寒のチェルノブイリから猛暑のエジプト・カイロへ戻り、現在、紅海をインドへ向かっています。船内は勿論エアコンは効いていますが、とにかく暑い毎日でキャビンでは裸生活です。
チェルノブイリは26年前、1986年4月26日に発生した大事故ですが、爆発した原発4号機のすぐそばは今なお高レベルの放射能にさらされています。勿論現在では「今直ちに健康に障害を与えるような状況<データ>」ではないからそば(約150m)まで行けたのですが、同行した医師の線量計は3~8マイクロシーベルト(1時間当たり)を示していました。
爆発は人為的ミスで、操作の未熟さが原因と伝えられていますが、国立のチェルノブイリ博物館の説明では、原発そのものの欠陥によるものと解明されていました。
現場は「石棺」で覆われていますが、ひびが入り危険だということで新たな「石棺」がフランスの会社の手で建設中でした。「撮影禁止」されるほど「秘密裡」の作業で全容の説明はありませんでした。現在の「石棺」をさらに覆うという超大型の「石棺」です。原発のそばは放射能が高く若干離れたところの建設工事です。完成したらレールで移動し蓋をする形になるそうです。完成は2015年。完成しますと、その中で爆発した原子炉の解体作業が行われます。気の遠くなる話です。
爆発後30km圏内が立入り規制の対象となり、その後汚染が厳しい10km圏内が「避難区域」に設定されました。この結果、94村と2市(チェルノブイリ・プリピチャ)が廃村となり15万人以上が新天地での生活を余儀なくされました。現在、チェルノブイリ市(原発から約18km)には兵士・警察官・学者・作業員ら約4000人が居住し、通勤の形で業務(原発運転や後処理など)に就いていますが、「避難区域」でズ~ッと生活している元気な老人がいるのには驚きました。
国の命令を無視している80歳の夫人で、電気も電話など外部との連絡手段もない生活で畑が頼りの“自給自足”(年金生活者)、国は“サマーショル(わがままな人)”と呼んでるそうです。近所には一端避難後戻ったという3人も生存していて、結構楽しい生活を送っているようで歓迎してくれました。因みに放射線の線量計は0.8マイクロシーベルト前後を指していました。
また、3km圏内のプリピチャ市(当時人口約5万人)も訪問しましたが、全くの廃墟で長崎の軍艦島を見たような風景が広がっていました。レーニン大通りがあり、周辺には文化の殿堂、大きなホテルやレストラン、遊園地、そして住民のアパートが林立し往時の賑わい残しています。が、線量計の針が振り切れる(10マイクロシーベル以上)ほどの放射線が依然として観測され、草木が乱立し狼まで出没するほど変容し、改めて原発爆発の大きさ、恐怖を伝えていました。
事故発生時はソビエト連邦で、その後原発のあるチェルノブイリはウクライナに、被害が広がった地域はベラルーシと独立した国家となりました。両国とも負の遺産を抱え後処理に追われています。短時間ですが現地を見た限りでは、25年の経過はさほど鎮静化に意味はなく、「昨日の出来事」のように大変な毎日が続いているようです。事故前年間2、300人だった見学者も最近では9000人ほどに増えているそうで、観光業者は100ドル程度でツアーも実施しているとの事でした。勿論何かあった場合は“自己責任”、立ち入の際は一札書かなければなりません。
これだけの大事故にも関わらず、周辺の原発は稼働しています。福島の感想を聞いたところ、原因は「地震・津波」との受け止め方で、原発の怖さは全く教訓になっていないようです。ショックだったのは、今では英雄となっている初期消火作業に素手同然で挑み命を落とした消防士20数名の遺体は故郷に帰れず、船の棺に入れられモスクワに保存されているということ。又、いわゆる“除染”は全く効果がなく、危険地帯から“避難”することが最大の安全策ということで、福島をどうするか、新たな研究・検討課題を教えられました。

2012年4月11日午前9時、紅海航行中「ピースボート」船上発・増川雅一

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