2021/5/2 “アルメニア人虐殺”はジェノサイド!

〇 アメリカが“アルメニア人虐殺”をジェノサイドと認定!(2021・4/24)

“アルメニア人虐殺”は第一次世界大戦中にオスマントルコ帝国で発生した事件で、1915年から23年にかけて非イスラム教徒、特にキリスト教徒のアルメニア人約200万人が強制移住させられ、150万人が殺害されたというものです。
 ナガサキピースミュージアムは2006年5月企画展 『ジェノサイドから考える国際平和展*忘れ去られたアルメニア人虐殺』として、平和と人権に関する国際法学者で当時愛知産業大学教授の瀬川博義さん(1941年生)の研究成果を取り上げ話題を集めました。

事件発生から既に100年以上経過していますが、旧ソ連アルメニアの首都エレバンにある「ジェノサイド博物館」では追悼記念日の4月24日に毎年追悼イベントが行われています。
この事件を世界では30カ国以上がジェノサイド(民族大量虐殺)と認定しています。アメリカは2019年に上下両院がジェノサイドと認定する決議をしていますが、歴代の政権はトルコがNATO(北大西洋条約機構)加盟国であることなどに配慮し“ジェノサイド”の表現を直接使うことを避けてきました。しかしながら、バイデン大統領は24日の追悼記念日に声明を発表し、“アルメニア人大量殺人”をジェノサイドと認定し、人権を重視するバイデン政権の姿勢を内外にアピールしました。

ナガサキピースミュージアムで展示した瀬川博義さんの“アルメニア人虐殺”の背景及び概要を紹介します。
『1914年に第一次世界大戦が勃発し、列強は自国の利益の追求に奔走していた。この頃オスマントルコは衰退期に入っており、領内のバルカン諸地域は次々に独立又は半独立を果たしたので、その領土はますます縮小し、その勢力も低下の一途をたどるという状況であった。
このような国情と世界情勢の中で当時のオスマントルコで政権を把握していた青年トルコ党の右派勢力指導者だったジェマル、タラート、エンヴェルの各大臣は、思想指導者であるギョ・カルブのとなえるイデオロギーである「一民族、一宗教、一文化、一言語」をめざすパン・トルコ主義を掲げて、極端に排他的な国粋主義へと傾倒していった。
この国家思想の標的とされたのが、それまでミレットという民族的・宗教的自治組織の下でオスマントルコの第2階級でありながら、ある程度の民族の独自性を許容されていた少数民族、特にアルメニア人であった。
アルメニア人は、被支配民族であったが、自分たちの文化、言語、宗教の独自性の下で強固に結束し、向上し続けた。特に、経済人はオスマントルコ皇帝にすら、発言を持つほど商才にたけており、その学問・芸術などトルコ人の不得意な分野に進出していたため、トルコ人やクルド人の反感を買っていた。また、ロシア領近くのオスマントルコ領アナトリア地方に住んでいたアルメニア人はトルコの宿敵ロシアに加勢するトルコ民族の敵と見なされた。
これら二つの大義名分の下に、アルメニア人絶滅計画が立てられ、1915年4月から、まず、指導的立場にあるアルメニア人が殺害され、ついで、兵士や健康な男性が抹殺された。そして、最後に残った病人、老人、女性、子供がシリアやメソポタミアの砂漠へ強制移住という名目で、飢餓、暴力、レイプ、灼熱の中を生還不能の旅立ちをさせられた。



  
こうして、現アルメニア側の学者の調査では150万人、トルコ側の説では60万人のアルメニア人の生命が亡くなり、オスマントルコ領内からアルメニア人の姿が消えた。もちろん、いくらかのアルメニア人は国外逃亡により生存できたことは事実である。
しかしながら、当時の列強が第一次世界大戦における自国の戦闘と国益に追われ、オスマントルコ領内で行われた惨劇を黙認せず、適切な干渉を行っていたならば、アルメニア人虐殺は防止できたであろうし、干渉が不十分であっても、その被害を最小限度に食い止めることが出来たはずである。
さらに、この事によって第二次世界大戦中に起こったナチスによるユダヤ人虐殺へも繋がらなかったと確信するものである。それはヒトラーがポーランド侵攻を前にした将校に対して 「あのアルメニア人絶滅のことを今誰が口にしようか」と檄を飛ばし、ナチスがユダヤ人の女性、子供まで無慈悲に総計600万人を殺害したのである。』(瀬川博義・記)

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