2019/12/13 ペシャワール会“事業継続に全力!”

〇中村哲医師葬儀に1300人!(福岡市:2019・12/11)

アフガニスタンで何者かの銃撃で死去したNGOペシャワール会現地代表・中村哲医師(73)の告別式が12月11日、福岡市中央区古小烏町70-1・ユウベル積善社福岡斎場で営まれました。告別式は中村家とペシャワール会の合同葬で、喪主はご子息、長男・健さん、葬儀委員長はペシャワール会会長・村上優さんが務め、式場からあふれるほどの1300人余りが参列しました。ピーススフィア貝の火運動は増川雅一専務理事が参列しました。
式は祭壇に飾られた中村医師の在りし日の写真を前に無宗教形式で行われ、冒頭、干ばつで不毛の平野に住民とともに作り上げた用水路に水が流れる感動的なドキュメンタリー(ナレーション・吉永小百合さん)が上映され、中村医師の業績を偲びました。

ペシャワール会の同僚・村上葬儀委員長の挨拶のあと、アフガニスタン駐日大使館のバシール・モハバット大使が嗚咽をこらえながら日本語で、「中村さんはその生涯をアフガニスタンの国民の生活を変えるため捧げて下さいました。中村さんは私たちの偉大な友人であり、こんなに悲しいことはありません。中村さんの功績に敬意を表し、ご家族、同僚ペシャワール会の皆様、ご友人、そして日本国民に皆様に慎んで追悼申し上げます」と弔辞を述べられました。
続いて、九州大学・福岡高校・西南学院(中学校)の同級生・恩師、それにいとこで故作家火野葦平のご子息らが涙ながらに弔辞を述べ、在りし日の“哲っちゃん”を紹介、偲びました。
また、上皇様らから送られた弔電の披露のあと最後に、喪主・健さんが涙をこらえながら家族思いだった哲医師の父親像を紹介し、「“家族は勿論人の思いを大切にすること”“物事において本当に必要なことを見極めること”そして、“必要なことは一生懸命行うこと”を父は教えてくれた」と心に残し生きていきたいとあいさつに代えて決意を述べられました。参加者はお別れの前に用意された菊の花一輪をそれぞれの思いを込めて祭壇に捧げました。

午後1時からの告別式にも拘らず午前10時すぎから参列者が詰めかけ、告別式が始まった時点では式場に入りきれない人が正面入り口に列をなしました。また、式場での取材は出来ませんでしたが大勢のマスコミ各社(新聞・テレビ)も詰め掛け、70人余りの記者・カメラマンが告別式斎場そばで取材に当たり内外に発信しました。

ところで、ペシャワール会の村上優会長は追悼の辞で「ペシャワール会は中村医師の意思を守り事業継続を全力で取り組む」と宣言しました。その全文です。

『中村先生。先生の御霊を前にお話するなど考えもしませんでした。今の私には、先生の死を受け入れる余裕はありません。いくら力を振り絞っても、押し寄せる悲しみに圧倒されるばかりです。ですがペシャワール会の会員を代表して言葉を述べよと多くの人々が私を後押ししています。中村先生、力をお与えください。
中村先生、先生がヒンズークッシュ山脈のティリッチミールに登頂された翌年の1979年、トレッキングに誘って頂きましたね。足を延ばしてカイバル峠を越えてヘラートまで、さらにバーミアンまでと計画していました。しかし旧ソ連軍によるアフガン侵攻で国境が閉鎖されたと聞いて、ヒンズークッシュ山脈のギルキットに赴きました。山の中で満天の星を見ながら、命について語り明かしたのが長い交誼の始まりでした。そのとき先生は、命の不平等について強い口調で語られました。山岳部に住む貧しい人たちが簡単な病気で亡くなって行くのを見て、手を差し伸べないことの不条理さを語っておられました。
その後先生は、1984年5月にペシャワール・ミッション病院に赴任されました。パキスタン北西辺境州でのハンセン病根絶計画を担うためです。ペシャワール会は、中村先生の医療活動を支えるために、その前年に700名の仲間、人々が集い発足しました。
それから36年の月日が経ちます。
中村先生、幾多の困難がありましたね。当時のペシャワールには300万人を超える難民が押し寄せていました。先生は、その苦難について私たちに語ることは少なく、人の命の不平等や世の中の不条理なことについては、心の中に押し込めて、いつも前を向いて淡々と歩まれました。
ミッション病院を出て1986年には、JAMSクリニック Japan Afghan Medical Service を創られ、それを核に PMS基地病院を創られました。その前には、アフガン東部の誰も手を差し伸べたことのない山岳最深部のダラエヌールやワマまで3つの診療所を作られました。
2001年の9.11事件後の米軍によるアフガン空爆の時には飢えや寒さで餓死寸前の20万人以上の人々に小麦粉や食料油も届、首都のカブールに臨時診療所を5ヶ所作られました。
そういう混乱が続く中で、2000年からは、追い打ちをかけるように大旱魃が起こりました。
中村先生が井戸を掘ると言い出された時も戸惑いましたが、農業用水路を造ると言われた時には、そんなことが出来るのかと不安が募りました。先生はそれが人々の命を助けるために必要だからという理由をあげられましたね。人を理解する深い洞察力を源泉として、分かりやすい言葉でいつも語られました。そしてそれを黙々と実践してゆかれました。結果として、1600本の井戸を掘り、16500ヘクタールの大地に緑を甦らせました。
でも先生は、そんな大きな仕事を成し遂げながら、おっしゃることは、とても平易なことでした。人の幸せとは、「3度のご飯が食べれて、家族が一緒に穏やかに暮らせることだ」と。
中村先生、先生が筑後川の山田堰から学んだ取水堰の伝統工法は、PMS方式という名で、アフガニスタンに根付き、将来的にはアフガニスタン全土に拡がろうとしています。先生に「名誉市民証」を授与されたアフガニスタン・イスラム共和国のガニ大統領は、PMS方式こそ、農業国アフガニスタン復興の「鍵」だとおっしゃいました。
日本では何度も皇居に招かれて当時の天皇陛下や皇后陛下に活動報告をされ、「思わぬところに理解者がおられた」と語られておられましたね。
中村先生は良心で生きて来られました。いつか「アフガンには良い人も、悪い人もいる、がそれを含めて共に生きている」と話されました。先生は、この35年間、アフガニスタンや日本の膨大な人々の心の支えとして実のある事業を完成させて来られました。そういう中で凶弾に倒れられ、尊い犠牲者になられました。先生は、誰もかれも分け隔てなく、丸腰で歩まれました。これも天の思し召しなのでしょうか。先生の尊い犠牲は私たちに前を向いて進めと力を込めて後押しをしています。
言葉を失って悲しみや喪失感などを超えて、押し寄せる記憶があります。先生が書かれたこと、話されたこと、言葉を交わしたこと、そしてペシャワールやアフガニスタンで共に体験したこと、その昔ヒンズークッシュ山脈の麓を旅したことが駆け巡ります。支援していただいた皆様もそれぞれの「中村哲医師」との思いを共にして頂けると思います。中村先生を介してペシャワール会としてつながった人の輪があり、会員や支援者の皆様がおられます。
私たちは先生の御霊に誓います。
第1に、ペシャワール会は中村哲先生の意思を守り事業継続に全力を挙げます。遺志ではなく今も私たちの心の中で生きておられる中村先生の意思として。
第2に、これまで中村哲先生がいつもされていたように、遠い先を見つつ、決して後ろを向かず前を向いて歩みます。様々な困難を超えて来られた中村先生は、今でも私の心の中で語り掛けて下さいます。その声と語り合いながら会員や支援者の皆様と共にアフガニスタン、そして平和を望む世界の人々と事業の支援を続けます。
これから中村先生が目の前に居られない中で、如何に PMSの事業を維持できるか、不安ではありますが、アフガ二スタン・日本で支援して頂く人々と共に歩んでまいります。
私は45年前に中村哲という人に出会いました。中村哲という人が人生の横にいたことが私の、そして多くの人々の人生の最大の幸いだったと思っています。出会いが人変える、その出会いを選択するかどうかは私たち一人一人の手にあると思います。
これまでのお導き、ありがとうございました。
2019年12月11日       ペシャワール会 会長 村上優 』

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