2018/5/29 岩永マキ

〇 恵まれない子どもへの限りない“愛!
   ~浦上の“岩永マキ展”<キリシタン資料館・~6/30>

浦上キリシタン資料館(長崎市平和町11-19)で開催中の企画展『岩永マキ』展が話題を集めています。
5月26日(土)には、岩永マキゆかりの地を歩くフィールドワークも開かれ多くの市民が参加しました。


<長崎市平和町11-19 「浦上キリシタン資料館」*浦上天主堂徒歩2分>

岩永マキ(1849-1920)は、嘉永2年3月3日、肥前国彼杵郡浦上村字平(現・長崎市辻町)、一蔵とモンの長女として生まれました。信仰深い両親のもとで育ちました。しかしこの時代はキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れていました。「踏み絵」は拒めば直ちに死刑、恐る恐る踏んではその後涙をもって懺悔の日々。幼いこの体験はマキの信仰をより深く強めていきました。
明治維新は日本の曙でしたが、信仰では暗黒でした。新政府の方針に従って、「神道国教」「祭政一致」と相合して、1869(明治2)年、浦上キリシタンの全村追放、全国各藩への流罪が実施されました。岩永マキらは岡山の鶴島に送られ、毎日開墾に従事させられ言い知れない苦難を強いられました。マキ21歳。
1873(明治6)年、米・英など諸外国の強い批判・抗議で禁制を告示した「高札」が全国で撤去され、マキらは浦上へ戻りました。マキは24歳になっていました。しかし彼女らを待っていたのは荒廃した農地、両親兄弟ら肉親の死亡でした。マキは残された妹らを助け田畑に鍬を振るい飢えをしのぎますが・・・・・。

 
<「岩永マキ」展>           <「岩永マキ・さるく」>

1874(明治7)年6月、長崎港外・伊王島で発生した赤痢のまん延に、宣教師ド・ロ神父の指導で、マキら浦上の若い女性たちは救護活動に尽力しました。その後も相次ぐ大型台風、天然痘の流行などで長崎の町には孤児や捨て子が増え、彼女らの手に委ねられました。マキを中心に女性たちの共同生活はド・ロ神父の下で形を整え、祈りと労働の生活が始まりました。ド・ロ神父によって精神的にも経済的にも援助が与えられ、準修道会として「浦上十字会」の名称のもとに、薄幸な子どもたちへの献身が続けられました。マキは同士の中心となり、孤児たちの養育のため、農耕・製糸・行商などに率先して自ら従事し心血を注ぎました。
マキの一生は、神から与えられた孤児、不遇な子どもたちを愛し続け、「浦上十字会(現・浦上養育院)」の代表として、45年間、修道院と愛育院の運営に携わりました。
1920(大正9)年1月27日、その年長崎地方に猛威を振るった流行性感冒により、72歳の生涯を閉じました。

 
 

5月26日(土)午前、岩永マキのゆかりの地・場所を訪ねるフィールドワーク「岩永マキを訪ねるさるく」が開催されました。宗教の枠を超えて長崎の文化を学ぼうと結成されている『アジェンダNOVAながさき』(代表・林田愼一郎さん)が企画した「第1回市民セミナリヨ2018」で、市民ら約20人が参加しました。
お告げのマリア修道会の下窄優美シスターがガイド役を務め、マキが眠る「こうらんば墓地」、「浦上養育院」、「お告げのマリア修道会・十字修道院」などを巡りました。
 
午後からは、浦上キリシタン資料館で、下窄優美シスターが「浦上養育院」設立に至る岩永マキらの業績を詳細に報告しました。

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