2017/5/11 「四番崩れ展」

〇浦上キリシタン資料館“浦上四番崩れ”150年展
(2017・5/9-8月下旬)

 
<浦上キリシタン資料館(長崎市平和町11-19)>

浦上キリシタン資料館は2014(平成26)年5月、カトリック教徒で東京で出版社「智書房」などを経営する岩波智代子さん(69歳)が長崎市浦上地区の自宅を開放して開設したもので、カトリック長崎大司教区(大司教・高見三明さん)が2015年の「信徒発見150周年記念事業」の一環として全面的に支援しました。
キリシタン弾圧の舞台となった浦上地区は第二次世界大戦時には原爆投下で当時東洋一と謳われた天主堂が壊滅し、信者8千人余りも命を奪われるなど日本のカトリック史上でも例を見ない苦難の歴史が残っており、浦上キリシタン資料館は浦上キリシタンに特化したその信仰の歴史を後世に伝えようというものです。
プレ開館時の「長崎の教会」展以来、歴史的な「大浦天主堂での信徒発見」・「原爆被害」を中心にその歩みと歴史を企画化し展示していますが、今回は、徳川幕府が倒れ明治新政府が誕生する歴史の大転換期にあって“一村総流配”の処分を受け全住民が村を追われて全国21藩に送られ改宗を強制されたいわゆる『旅~四番崩れ』に焦点を当てています。

 

1865(慶応元)年大浦天主堂を訪れた浦上キリシタンによる「信徒発見」で、幕府の「切支丹禁教令」下で200有余年間消滅したと思われていた教徒が確認され世界のビッグニュースとなりますが、弾圧は継続され2年後の1867(慶応3)年7月14日、長崎奉行所は当時浦上地区に4か所あった“秘密教会”の一つ、「本原郷平野の聖マリア堂」に踏み込み信徒68人を拘束し小島の牢獄に繋ぎました。これが『四番崩れ』の始まりでした。
切支丹史研究家・片岡弥吉著『浦上四番崩れ』によりますと、<「崩れ」とは検挙事件のことであり、四番崩れの前に一番崩れ(1790年)、二番崩れ(1842年)、三番崩れ(1859年)と三つの検挙事件がありました。その中で一番崩れと二番崩れにおいては犠牲者はありませんでしたが、三番崩れではいわゆる“隠れキリシタン”の最高指導者「帳方(惣頭)」ら多くの指導的人物が投獄され非道な拷問を受けて牢死者も出ました>
この事件と並行する形で日本は幕府から新政府へと急ピッチで進みます。
1867(慶応3)年11月「大政奉還」、翌1868(慶応4)年1月「幕府→明治政府誕生」
新政府は神道を中心とした国家建設を図り、同年4月太政官の高札で改めて「キリシタン禁制」を告示し、5月には、木戸孝允・井上馨・大隈重信らが御前会議で「浦上村一村総流配」を決定します。そしてまず浦上キリシタンの指導者・高木仙右エ門以下114人を拘束して萩・津和野・福山の3藩に預けるとともに、翌1869(明治2)年12月には政府役人が長崎に来て浦上キリシタンを全員逮捕・拘束し、富山以西10万石以上の21藩に流配しました。
その数3394人。浦上地区の全村民は老若男女を問わず6年にも及ぶ過酷な配流生活を強いられたのです。

       <2017年5月10日付・長崎新聞>

新政府のこの処置はアメリカ・イギリスをはじめ諸外国の猛反発を受け、不平等条約改正や西洋文明調査のため欧米に派遣された岩倉使節団(岩倉具視・伊藤博文・大久保利光ら政府首脳陣や留学生ら総勢107人)も現地で厳しい抗議に立ち往生する事態に遭遇しました。そして、正使を務めた岩倉具視が欧州から電報でキリシタン釈放を要請することになり、政府は1873(明治6)年2月太政官布告第68号で「キリシタン禁制の高札を撤去」したのでした。
こうして、1614(慶弔19)年に始まった、キリシタン禁制・弾圧259年の歴史は終わり、全国に流され「旅」を強いられた浦上キリシタンは多くの死者を出しながらも帰村したのです。
浦上四番崩れ150年」展では、帰村50数年後の1930(昭和5)年に撮影された生存者の集合写真を中心に、配流先での弾圧・取り調べなどの様子やその歴史的な背景を簡略にまとめ大型パネルで紹介しています。
片岡弥吉著「浦上四番崩れ」のあとがきでは、『「愚昧な農民」に過ぎないと見られていたキリシタンたちが幕府を手こずらせ、明治政府に政策転換を余儀なくさせたのは、力によるのではなく、彼らの精神のゆえであった。政治の権威と良心の権威、現世的な生活と超自然的信仰という、相対立する価値の択一を迫られたとき、ためらうことなく信仰と良心を選び、拷問と死とを超えてそれを守り通そうとした、その人間性の純粋さにあった。彼らのこの態度は尊い。それは外国使節団の心を動かして、明治政府と外交団との談判折衝がくりひろげられる。事件の、そのような発展の中で、わが国の政治に信教と良心の尊重という近代性がもたらされはじめたことは注目されるべきである。「浦上四番崩れ」は実に「近代」を生み出すために日本がしのがねばならなかった陣痛の一部であったといってよいであろうか』と、弾圧の中で浦上キリシタンが示した、良心と精神の美しさに感嘆し惜しみない賛辞を送っています。

 

 

 

 

 

 

 

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