2016/7/15 永島正一とさだまさし

○ 長崎の郷土史家・永島正一さんとの“出会いと別れ”
~甦る“グレープ時代”のさだまさし会長~
“長崎を知る、遊ぶ”季刊誌「樂(ra-ku)」(2016年夏号・№32)が、『長崎「ひと」物語』で郷土史家・永島正一さんにスポットを当てています。執筆したのは元NBC長崎放送のディレクターで生前から永島家と交流のあった大田由紀さんで、「郷土史を大衆に 郷土史家永島正一」のタイトルで写真入り2ページにわたり、“市井の長崎町人”と願い続け長崎の歴史に大きな足跡を残した永島さんを紹介しています。
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<季刊誌「樂」2016年夏号>

永島正一さんは、名前のように大正元(1912)年生まれで、名門海星中学校を卒業後長崎県立図書館に勤務。長崎史の祖・古賀十二郎に学び図書館長を務める傍ら、長崎を訪れる著名人や多くの作家など広範な文化人に長崎を伝える代表的な郷土史家となりました。昭和62(1987)年、75歳で亡くなりましたが、永島さんにはもう一つの顔があり、それは同誌に紹介されているようにテレビ・ラジオ番組への出演です。その中で、さだまさし会長との出会いの場となった朝ワイド番組「テレビニュータウン」を改めてご紹介します。

・・・ 『人懐っこく、物識りだけど押しつけがましくない、ユーモアがあり、しゃれもうまい。そんな「長崎のおっちゃま」は、昭和48年(1973)、テレビの生ワイド番組の草分け「テレビニュータウン」(毎週土曜日12時~)がスタートするとき、メインパーソナリティに起用される。番組の担当ディレクターだった増川雅一<*現・ピーススフィア貝の火運動専務理事>は、「“長崎のことばやりまっしょや”と次々にアイデアを出され、豊かな人脈で出演交渉まで。番組の充実と発展は、永島正一さんのおかげです」と語る。当時20、30代の若手ディレクターは番組制作のなかで「長崎」を学んだ。NHKの正午の全国ニュースをはるかにしのぐ高視聴率で、放送業界でも注目された。・・・』

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<永島正一さん>   <テレビ初出演「グレープ」>

 永島さんとさだまさし会長との出会いは、スタジオ写真のように「テレビニュータウン」です。
 1973(昭和48)年1月、さだ会長は吉田政美さんと「グレープ」を結成しており、初登場の曲は「恋は馬車に乗って」と「蝉時雨」の2曲でした。反響が大きく「テレビニュータウンは」3月から毎週のレギュラーに抜擢し、まさし会長は多くのオリジナル曲を熱唱しました。
 「長崎の若かもんはやるバイ!」~永島さんはべたほめでした。
 「グレープ」は、10月『雪の朝』でメジャーデビュー。翌1974(昭和49)年4月リリースした2枚目のシングル『精霊流し』が大ヒットし、スターへの道を駆け上って行きますが、「テレビニュータウン」との交流は続き、特集や特別番組にも数多く出演し、永島さんとの長崎弁会話を楽しみました。
 デビュー前には、長崎市寺町の名刹・晧台寺で収録した「特集・泰山木の花の下で」では、当時ヒットしていた郷ひろみの「男の子女の子」を歌ったほか、1975(昭和50)年1月、スタジオで長崎の交響楽団を交えて「グレープ・ニューイヤーコンサート」を生放送。同年4月には、「特集・長崎街道」に出演し、日本三大土人形の里「古賀・藤棚」で、永島さんから「長崎街道は多くの文化を江戸へ運んだ歴史的な道。若いあなたたちは音楽で東京を目指す。前途洋々たるこの道を力強く進んで下さい」と励ましの言葉を貰いました。

1長崎街道①藤棚・87.9KB・  2長崎街道③グレープ・73.7KB・  3長崎街道④古賀人形・73.4KB・
4長崎街道⑤永島正一・85.0KB・ 5長崎街道⑥永島握手・67.6KB・  6長崎街道⑦別れ・73.6KB・

<NBC長崎放送制作「テレビニュータウン・特集長崎街道」(1975年4月)>
季刊誌「樂 ra-ke」2016年夏号は、長崎市中町 ㈲イーズワークス(電話095-827-8960)が発行しています。書店でお求め下さい。本体価格は1000円です。

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