干支の午年(うまどし)生まれの人たちが結成している市民の交流親睦会「長崎・午会」(会長・瀬戸口智彦さん)の昭和27年度総会が長崎市の料亭「春海」で開かれ、卓話で招待されたピースミュージアム・増川雅一専務理事が 『電停「千馬町」の想い出~戦争に征った馬たち』を話しました。
長崎・午会は、昭和5(1930)年から昭和53(1978)年までの午年生まれの人が参加しており、結成して50年近くにもなるんだそうです。この日は、ピースミュージアムで企画展を開いた版画家・小崎侃さんや元NBCラジオ「絵のない映画館」解説者・平山進さん、長崎ラオス友好協会会長・本田文明さん、福岡市のフィニシングスクール・山口美智子さんら世代を超えた多彩な26人が参加しました。
<「長崎・午の会」> |
<「戦争に征った馬たち」> |
ナガサキピースミュージアムに至る路面電車「大浦線」の分岐点だった「千馬(せんば)町」は戦争と深いつながりを持っていました。
日露戦争が始まった明治37(1904)年、長崎港が埋めたられ「出島」が陸続きとなり生まれた出島地先が、大陸出兵の重要な基地となりました。小倉の陸軍12師団の司令部が置かれ、各地から動員された兵士と軍馬が集合し、出島岸壁から御用船で朝鮮・仁川へ向いました。
<長崎港出島地先>
<電停「千馬町」> |
<電停「出師橋」> |
その後の町建ての中で 路面電車「大浦線」が生まれ、出発・分岐点が“多くの軍馬を集めた所”の意で「千馬(せんば)町」、次の停留所が“兵士が出発した所”の意で「出師(すいし)橋」と命名されましたが、次の埋め立ての際、昭和36(1961)年、「千馬町」は廃止、「出師橋」は
「市民病院前」に改名されました。
「明治は遠くなりにけり」ですが、増川専務理事は合わせてさだまさし会長の「防人の詩」にのせて軍馬の慰霊碑を紹介し平和の大切さを訴えました。